“創造性”に蓋していたもの
前回に引き続き、
〈クリエイターを生きる〉と決めてから、
とっても身軽になった、まついゆかです。
毎日創ることに喜びを感じ、
何かを生み出すことに萌え、
創っている最中は没頭しすぎて、
時間を忘れてしまうほど熱中することが、
とても幸せであります!!!!
これまでは没頭しすぎると、
「あぁ…時間の使い方が下手」と凹んでいたけど、
今となっては【ワタシは創る人】なんだから、
創ることがド真ん中にあることが当たり前であり、
そこに集中できるということが、
何よりの幸せなわけなのだ…と思えるようになり、
それだけで相当ストレスが軽減された。
眠っていた創造性
ワタシはずっとこれまで「コレは自分じゃない」と、
アレコレやってみては「違う」と言って、
何度も破壊&構築を繰り返してきている。
だから、名乗る職業やら肩書やら、
コロコロ変わってきていた。
「また新しいこと始めた…」というのが、
おそらく周囲のワタシの印象だと思う。
改めて人生を振り返ってみると、
長い間、自分の中の〈創造性〉は、
眠っていたんだと思う。
どういうことかと言うと…
うちは母親が過保護で、
ワタシの「作りたい」という欲求は、
常に奪われていた。(という感覚&解釈)
これまでも思い出せるエピソードとしては、
・夏休みの宿題➡ほぼ母親がやっていたこと
・絵画コンクール➡母親がやっていたこと
・家庭科の宿題➡全部母親がやっていたこと
・お料理➡手伝いたくても、排除されていたこと
このように、とにかく「作る(創る)こと」に関しては、
“奪われていた”という思い出ばかりが、
ワタシの記憶として残っているのであります。
特に幼少期・児童期は、
絵を描くことが好きで。
けれど、最初は自分でやっていても、
途中から母があーだこーだ言い出し、
最終的には筆を奪われ、
仕上げをされる…というお決まりの流れ。
それで賞を取ったり、
評価をされても全然嬉しくなかった。
親切心が過ぎる=相手を〈信頼していない〉
おそらく母としては、
心配だったり、やってあげたくなったり、
親切心から“手伝って”くれていたんだと思う。
たしかに、いつも期限ギリギリだったり、
夏休みの宿題なんて、
最後の数日で追い込みをかけていただけに、
心配になるのも親心としては当然なんであろう。
見るに見かねて…ということだったんだと思う。
これは大人になった今だから、
わかることなんだ。
子どもの頃のワタシにとってみると、
「常に奪われている感覚」があった。
そして、それは無意識に…
(私は)信頼されていない
最後までやり遂げられない子
=「私は成し遂げられない」
というメッセージを受け取っていた。
これがビリーフ(思い込み・信念)として、
深く刻み込まれていて、
現実として自己信頼を失い、
また成し遂げられない人生を創ってきた。
母は当時チャキチャキしていて、
とてもせっかちだった。
いつも何かに追われているようにセカセカし、
常に「早くしなさい!」と言われ続け、
自分のペースで物事を進めることが
許されない環境だった。
母のスピードについていけず、
また周囲のスピードにもついていけず、
いつしか無力さを感じるようになった。
無力になったワタシは、
母の言う通りに動くお人形でいることが、
自分にとっては都合がよかったのだ。
だから自分のペースで進めないときは、
母に頼り、委ねた方が楽だったのだ。
自分から生み出されたものはすべて“愛する作品”
おそらく、元々ワタシが持っている
クリエイティブ気質は強いほうだと思う。
子どもの頃に抑圧してきたその性質は、
大人になった今、自分のペースで出来るし、
自由に創ることで爆発してるんだと思う。
要するに、子どもの頃に満たせなかった欲求を、
今、叶えてあげているってこと。
ワタシは自分のセンスで世界観を創ることが大好き!
自分が作り出すもの全てが“愛する作品”という感覚。
とても直感&アート気質だし、
そして、自分から生み出された作品は、
誰になんと言われようとも、
自分が一番大好きでウットリする。
自己満足・独りよがりなのかもしれないが、
それでいいんだと思う。
自分が生み出したもので、
自分を満たしてあげれるのであれば、
それは最幸なこと。
そして、ワタシのセンスや世界観を、
好きと言ってくれる人が信頼してくれるし、
お仕事もオーダーしてくれる。
自分の好きなことで、
喜んでくれる人がいるって最高じゃないか!
ただ…たまに昔の名残で。
自分が創ったものに対し、
評価されたり、口出しされるのが好きじゃない。
あと、自分のペースを乱されること。
どーしてもイラッとしてしまう。
たとえ有り難いフィードバックであっても。
このイラッとするのは、
間違いなく“母に対する感情”の名残。
…ということも知っている。
だから、そのイラッと感は自分の中で留めつつ、
相手の意見を採用するもしないも、
自分が決めればいい。
子どもの頃は自分で決めることが
出来ずに従っていたけれど、
今は〈選択する〉ことが出来るんだ。
今は自分で〈決めること〉が出来るんだ。
自分の直感を信じよう。
“創造性”の蓋が開いた
ということで、
これまでは自分の中の“創造性”を
信じてこれなかったんだと思うし、
創ることに対し自分がOKを出せていなかったんだと思う。
こんなにも創ることを楽しみ、愛し、
喜び、幸せを感じることに、
自分自身が一番驚いた。
長いこと漬物石のような重さで蓋をしていたのは、
自分の創造力に対する信頼喪失&無力感
だった。
自己信頼が底上げされたことで、
いろんな人生転換が起こっている。
ワタシがいいと思ったものはいい!
別に誰の許可もいらない!
自由に創造し、自由に生み出し、
そして自由に表現してけばいいさ。
自分が愛するものを、
自分のセンスを信じて放っていけばいい。
自分の世界観を表現していけばいい。
ということで、
これからもクリエイター街道を進みます!
https://yuka8.com/blog/creator2“創造性”に蓋していたものhttps://yuka8.com/wp-content/uploads/2019/02/1278592-1024x1024.jpghttps://yuka8.com/wp-content/uploads/2019/02/1278592-150x150.jpg創|Creator志|Business綴|BlogCD,クリエイター,クリエイティブディレクター,創造性前回に引き続き、〈クリエイターを生きる〉と決めてから、とっても身軽になった、まついゆかです。 毎日創ることに喜びを感じ、何かを生み出すことに萌え、創っている最中は没頭しすぎて、時間を忘れてしまうほど熱中することが、とても幸せであります!!!! これまでは没頭しすぎると、「あぁ…時間の使い方が下手」と凹んでいたけど、今となっては【ワタシは創る人】なんだから、創ることがド真ん中にあることが当たり前であり、そこに集中できるということが、何よりの幸せなわけなのだ…と思えるようになり、それだけで相当ストレスが軽減された。 眠っていた創造性 ワタシはずっとこれまで「コレは自分じゃない」と、アレコレやってみては「違う」と言って、何度も破壊&構築を繰り返してきている。 だから、名乗る職業やら肩書やら、コロコロ変わってきていた。「また新しいこと始めた…」というのが、おそらく周囲のワタシの印象だと思う。 改めて人生を振り返ってみると、長い間、自分の中の〈創造性〉は、眠っていたんだと思う。 どういうことかと言うと… うちは母親が過保護で、ワタシの「作りたい」という欲求は、常に奪われていた。(という感覚&解釈) これまでも思い出せるエピソードとしては、・夏休みの宿題➡ほぼ母親がやっていたこと・絵画コンクール➡母親がやっていたこと・家庭科の宿題➡全部母親がやっていたこと・お料理➡手伝いたくても、排除されていたことこのように、とにかく「作る(創る)こと」に関しては、“奪われていた”という思い出ばかりが、ワタシの記憶として残っているのであります。 特に幼少期・児童期は、絵を描くことが好きで。けれど、最初は自分でやっていても、途中から母があーだこーだ言い出し、最終的には筆を奪われ、仕上げをされる…というお決まりの流れ。 それで賞を取ったり、評価をされても全然嬉しくなかった。 親切心が過ぎる=相手を〈信頼していない〉 おそらく母としては、心配だったり、やってあげたくなったり、親切心から“手伝って”くれていたんだと思う。 たしかに、いつも期限ギリギリだったり、夏休みの宿題なんて、最後の数日で追い込みをかけていただけに、心配になるのも親心としては当然なんであろう。見るに見かねて…ということだったんだと思う。 これは大人になった今だから、わかることなんだ。 子どもの頃のワタシにとってみると、「常に奪われている感覚」があった。 そして、それは無意識に… (私は)信頼されていない 最後までやり遂げられない子=「私は成し遂げられない」 というメッセージを受け取っていた。これがビリーフ(思い込み・信念)として、深く刻み込まれていて、現実として自己信頼を失い、また成し遂げられない人生を創ってきた。 母は当時チャキチャキしていて、とてもせっかちだった。いつも何かに追われているようにセカセカし、常に「早くしなさい!」と言われ続け、自分のペースで物事を進めることが許されない環境だった。 母のスピードについていけず、また周囲のスピードにもついていけず、いつしか無力さを感じるようになった。 無力になったワタシは、母の言う通りに動くお人形でいることが、自分にとっては都合がよかったのだ。 だから自分のペースで進めないときは、母に頼り、委ねた方が楽だったのだ。 自分から生み出されたものはすべて“愛する作品” おそらく、元々ワタシが持っているクリエイティブ気質は強いほうだと思う。 子どもの頃に抑圧してきたその性質は、大人になった今、自分のペースで出来るし、自由に創ることで爆発してるんだと思う。要するに、子どもの頃に満たせなかった欲求を、今、叶えてあげているってこと。 ワタシは自分のセンスで世界観を創ることが大好き!自分が作り出すもの全てが“愛する作品”という感覚。 とても直感&アート気質だし、そして、自分から生み出された作品は、誰になんと言われようとも、自分が一番大好きでウットリする。自己満足・独りよがりなのかもしれないが、それでいいんだと思う。 自分が生み出したもので、自分を満たしてあげれるのであれば、それは最幸なこと。 そして、ワタシのセンスや世界観を、好きと言ってくれる人が信頼してくれるし、お仕事もオーダーしてくれる。自分の好きなことで、喜んでくれる人がいるって最高じゃないか! ただ…たまに昔の名残で。自分が創ったものに対し、評価されたり、口出しされるのが好きじゃない。あと、自分のペースを乱されること。どーしてもイラッとしてしまう。たとえ有り難いフィードバックであっても。このイラッとするのは、間違いなく“母に対する感情”の名残。…ということも知っている。 だから、そのイラッと感は自分の中で留めつつ、相手の意見を採用するもしないも、自分が決めればいい。 子どもの頃は自分で決めることが出来ずに従っていたけれど、今は〈選択する〉ことが出来るんだ。今は自分で〈決めること〉が出来るんだ。 自分の直感を信じよう。 “創造性”の蓋が開いた ということで、これまでは自分の中の“創造性”を信じてこれなかったんだと思うし、創ることに対し自分がOKを出せていなかったんだと思う。 こんなにも創ることを楽しみ、愛し、喜び、幸せを感じることに、自分自身が一番驚いた。 長いこと漬物石のような重さで蓋をしていたのは、 自分の創造力に対する信頼喪失&無力感 だった。自己信頼が底上げされたことで、いろんな人生転換が起こっている。 ワタシがいいと思ったものはいい!別に誰の許可もいらない!自由に創造し、自由に生み出し、そして自由に表現してけばいいさ。 自分が愛するものを、自分のセンスを信じて放っていけばいい。自分の世界観を表現していけばいい。 ということで、これからもクリエイター街道を進みます!まつい ゆかゆか まついinfo@ring-link.jpAdministratorただ、ワタシを生きる
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