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ワタシは自分自身が、
結末を体験することの大切さを重視しているため、人に対してもそうする。

結果がわかっていても、
あえて口出しをしないし、
気を長くしながら見守るってことを、
これまでもやってきた。

仕事の面では、
後輩の仕事を見守りながら、
「それじゃーうまくいかないんだよな…」と
心の中で思っていても、あえて言わない。

命の危険が伴わない限り、また仕事としてクライアントの信頼を失わない限りは、
基本的に自分で考えて、自分でやってみて、
そして自分で結果を体験してもらうのだ。

昔はよく言われた。

「まついさん!
 なんで放っておくんですか!
 なんで注意しないんですか!」

なんてね。

口出しして注意して、行動を止めてしまったら、その人は「体験する」という最高のお宝に出会えない。

そんなお宝を横取りするなんて、
ワタシはしたくないし、
それほどもったいないことはないのだ。

ワタシはそんな考えの基で行動している。

究極の学びは“経験”の中にしかない

これはワタシ自身が、
これまでの人生を通して実感したことだった。

学生の頃は、学校に行っても、勉強が嫌いで。
というか、一言で言うと〈おもしろくなくて〉

知識や情報だけを詰め込むことが、
苦痛でつまらなくて仕方なかった。
記憶することが不得意だったワタシは、
常に頭に重たさを感じていた。

けれど、周りと合わせないといけない(と思っていた)から、必死に付いていこうと一応努力をしていた。

早くその世界から飛び出し、
【体験を通じて習得していくことの重要性】を、まずは自分が体現したかったため、
大学進学はせずに社会人となったのだ。
社会に出てから、大学進学しなかったことを恥じることも多々あったが、
よくよく思い返してみると、
そこにはワタシなりに、
意図があったことを思い出した。

そして社会人となり、
さまざまな人たちと出会い、
いろんな会社で勤めて、
経験を積みながら人間力を総合的に磨いて行った。

・PCスキル
・コミュニケーションスキル
・社会人マナー
・仕事の要領を掴むスキル
・リーダーシップ
など、社会はいろんなことを教えてくれた。

知識や情報、スキルなどの部分的な学習・習得をすると、「点」でしかなく、なかなか日常や仕事に活かせない。
けれど、体験を伴って学習していくと、
「線の中の点」を学んでいくので全体像が把握できるため、物事を俯瞰して捉えることができるようになる。
そのため、情報量も多く入ってくるのだ。

ワタシの20代の10年間は、
とにかく“多くのことを経験する”を目標とし、
見事、履歴書に書ききれないほどの仕事をしてきた。

・長続きしない
・飽きっぽい
・持続性がない
・忍耐力がない

そう思われてもやむを得ないし、
一時期は、そんな自分がダメだと思ったこともあったけど、
これまた今振り返ってみると、
ちゃんと、そこにも意図があったことを思い出した。

【生きた学び】をしたかったワタシにとって、
机に向かってお勉強することに、
価値を感じられなかった。
学歴や資格のために頑張ることが、
無意味に思えて仕方なかった。
社会に出て人とつながり、
自分の“好き”や“能力”を貢献することで対価をいただき、自分の人生を歩むために必要な学びだけをやりたかった。
そのためには経験から学習することが、
究極の学びであり、最短であることを、
今の年齢になってふに落ちている。

“体験”と“経験”の違い

ワタシの師(巨匠)の一人。
感性論哲学の芳村思風先生は、
このように仰っている。

体験=肉体が外の事実と関わったこと
経験=体験から何を学びとったのか
同じことを体験しても、学びとる経験は異なる。
体験と経験というのは、英語では「エクスペリエンス」だが、
日本語では次元が違うので、
体験と経験を分けて取り上げる必要がある

感性論哲学創始者 芳村思風先生の2020年9月の講義より

だから大切なのは、

体験から経験に落とし込む作業

になる。その作業では何が必要かって、

「この体験から何を学んだか?」を
自分自身(内側)に問うこと。

体験をさまざまな角度から観て、
さまざまな解釈をし、
体験を〈自分の経験〉という名のデータバンクに、情報・体感覚・感情・解釈と共に細胞レベルへ落とし込んでいく。

体験したことを、
「成功」と解釈するのか。
「失敗」と解釈するのか。
それは、経験へ落とし込む際に(無意識に自分で)決めているのだ。

待つためには、愛と信頼が必要

この考えに基づいて意図的に行動しているけれど、端から見ると一見、“冷たい人間”に思われるかもしれない。

外側から行動だけを見ると、
そう受け取られても仕方ないんだろうね。

けれど、ワタシとしては、

「待つこと」は愛

だと思っている。

目の前の人が結末を体験することを待ち続けるには、【愛と信頼】しかないのだ。

多くの人が、相手のことを信頼しきれない。
目の前の人が行動を起こそうとすることに、
「それじゃ、無理」
「多分、出来ないだろう」
「この人には無謀だ」
といったようなことを、心の奥で思っている。
多くの人が“当たり前のように”、
こう思い込んでしまっている。
だから、居ても立ってもいられなくて、
つい口出ししたり、手を出したりするのだ。
子育ても同じね。

これは、相手のことを低く見積もっていることであり、相手に対してとても失礼なことなのだ。

他者を信頼していないということは、
自分を信頼していないとイコール。

こういう関わり方をずっとしていると、
いつしか相手はパワーを失っていく。

ワタシは子どもの頃、母親に口出され、手を出され、結末を体験させてもらなかった。
その体験があったからこそ、今は経験に変えて、この考えを持つようになった。

パワーを失ったワタシは、どうなっていったかというと、人に合わせてばかりの人生。
自分の考えを持つことが出来ず、
自分の欲求が何なのかもわからなくて。
常に人からの指示を待つ人になっていた。
自分の価値はとても低く、
周囲に気を遣ってばかりいた。
(今となっては想像できないよね…笑)
ワタシの前半の人生は迷宮入りだった。
自分が何のために生きているのかがわからなかった。
自分がどこにいるのかわからなかった。

今は自由にワタシを生き、
自分の主張も尊重し、
また他者へ信頼と愛をもって
接することができるようになったのも、
10年以上かけて心理学を学び、
また数々のセッションやワークに取り組んで、心と思考のクリーニング(断捨離)をしてきたからだ。

しかし、心理学を学んで勉強しているだけじゃ、この域にはたどり着けない。
最終的には、自分に取り組むワークをしなければ、生き方はなかなか変わらない。

人生に起こる全ての体験は、
「この体験から何を学びとるのか?」という
問いを起こすためのものでしかない。
病気も事故も生死も事件も何もかも…
それらの体験から学びとって経験とするためには、結末までを体験することが超重要!

これからも、目の前の人の結末を奪わないように愛と信頼を持って、見守っていこうと思う。

 

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