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これまで、あまり自分の人生について語っていませんでしたが、今回の事業と深く結びついたところがあり、とても自分の中で腑に落ちたので、そのことも含めて書こうと思いました。

生誕

私は1977年に横浜で、ごくごく普通の家庭に生まれました。父はサラリーマン、母は専業主婦。裕福ではなかったけれど、貧しいわけでもなく、平和な日常を過ごしていたと思います。
当時は父の仕事の関係で名古屋に住んでいたそうですが、母にとって初めての出産ということで、母の実家がある横浜市で私は生まれました。そのため、数カ月後には名古屋に移ったそうです。

弟が2年後に生まれる

1979年に弟が名古屋で生まれました。私は弟の存在をとても喜んでいたであろうと、写真を見るとそんな雰囲気が伝わってきます。仲間が出来たような、守りたいものが出来たような、そんな感覚があったように感じます。

母は男の子を生みたくなかったそうです。そのためか、母は弟に対して厳しく冷たく当たっていました。虐待はされていないけれど、どちらかというと私は守られ、弟は怒られる対象になりやすい‥そんなふうにパワーバランスが偏った接し方を母は私と弟にしていたように思います。
私も自分自身が怒られるのが嫌なので、弟を盾にしていました。(←ひどい‥)弟が怒られているのを、いつも心の奥で「ごめんね…」と感じていたことを、今でも思い出します。「ごめんね…」と思いながらも、守ってあげられない自分に不甲斐なさを感じていました。行動を起こせない自分を情けなく感じていました。

そんな弟ですが、それでも私を「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と言いながらくっついてくる優しい子でした。ケンカする時は、取っ組み合いのケンカもそれなりにしてきましたが、ケンカしながらもとても仲良かったと思います。

引っ越しが続く

横浜で生まれ、幼稚園までは名古屋で過ごしました。その後、小学校1年生からは青森県青森市で育っています。これも父の仕事の関係でした。幼稚園の頃の友達、近所の遊び友達と別れることがとても悲しかったと記憶しています。
子供の頃から引っ越しを繰り返しているためか、環境が変化することに対する抵抗が今でもありません。場所に執着する、腰を据えることがないのが、ある意味私のフットワークの軽さにも繋がっているのかもしれませんね。

青森での生活はとても楽しいものでした。新しい友だちもでき、雪の国での生活は大人は大変だったと思いますが、子供にしてみると雪と遊べる楽しさは、何にも代えがたいものです。冬にはスキーの運動会があったり。ほぼ毎週末は父に連れられスキー場のナイターを楽しみました。母親参観ではかまくら作りなど、雪国ならではのコンテンツばかり。自然に囲まれながら、小学校1年〜4年までを伸び伸びと過ごしました。自然と接すること、自然の生命と接して慈しむ心は、ここで育ったように思います。

そして再び引っ越したのが、小学校4年生が終わり、5年生になる間の春休みでした。青森から神奈川県相模原市へ越すことになりました。これまた父の仕事の関係です。
この時も友達と別れることが、とてもとても悲しくて泣きまくりました。駅にはクラスメイトと先生が見送りに来てくれて、千羽鶴をもらいドラマチックな別れをしました。

別れの切なさは、この頃からよく感じていたと思います。また新しい環境に入っていく緊張感や怖さも、よく感じていました。転校生っていうだけで、注目されちゃうんですよね。。

父と母が不仲になり始める

曖昧な記憶で、いつの頃かはハッキリと覚えていません。青森の家だったか…相模原の家だったか…記憶が曖昧ですが、よく子供の頃から「母がいなくなったら」とか「父がいなくなったら」とか「家族がバラバラになったら」を想像しては、枕を涙で濡らす子でした。 本当よくそんなことばかり考えていたなぁ…。そんなことを常日頃から思っていたということは、少なからずとも父と母の不仲を子供ながらに感じていたからでしょう。家族の中に安心感が欠け始めていました。

母は私によく父の文句・不満を言っていました。父は私によく母の文句・不満を言っていました。随分と聞かされたという記憶があります。そのためか、私は“結婚”に対して良いイメージを持っていませんでした。だから今でも独身なんでしょう‥(笑)「お父さんのような人と結婚してはいけない」というフレーズは、よく聞いていたような気がします。

母の話しを聞き、父の話しを聞き。私は家族がバラバラにならないよう、一生懸命不仲な二人をなんとか取り持っていたように感じます。けれども、私の努力は虚しく徐々に父と母の会話は少なくなり、冷戦状態に突入しました。会話すらしなくなり、何か用事があるときには私を通して伝えてくる。そんな冷めきった夫婦の間にいた私は、二人の伝書鳩をしていたと思います。

なぜそうなってしまったのか。そのきっかけは何だったんだろうか?何が原因なんだろうか?こうなってしまっては、修正がきかないんだろうか? 愛して幸せになるために一緒になったはずなのに…。 そんなことを10代に入って感じていたと思います。

そして父は単身赴任をするようになり、3年という単位で不在にしていました。大型の休みのときにしか帰ってこない父。母と弟と私の生活が当たり前になってきました。

冷戦状態はおそらく10年以上

父と母の不仲は10年以上だったと思います。結局離婚をしたのですが、離婚したのは私が23か24歳くらい。成人になってからでした。けれども、不仲のスタートは多分10歳か11歳頃なので、約12年くらいだと思います。さすがに子どもたちも成人になったことですし、子供たちから見ていても別々になるほうがお互いの幸せになると分かっていたので、離婚に賛成をしました。そこから母も伸び伸びしているように思います。

私が関係性を修復したい理由は…

私はこれまで「なぜそんなまで、人が感情がもつれて不仲になっていくことに悲しさと憤りを感じるんだろうか…?」と自分でも分からず、不明なままでした。
そして先日ある人に尋ねられたのです。「あなたは、なぜこの事業・サービスをしたいのですか?」と。
その時は「さぁ…?なぜかニュースを見ていて、人間関係がもつれて殺人事件とか傷害事件になるのが、もう嫌で見てられないんですよねぇ‥どこから湧き出てくる感情か分からないんですけど。。」と応えていましたが、その後にふと降りてきたのが、自分の人生の振り返りでした。

私はずっと父と母の関係を修復したいと願っていた。二人が冷戦状態になることを切なく思っていた。多分そこには憤りもあったのでしょう。双方の意見を聞き、気持ちを聞き続け、けれども子供の私には何もすることが出来なかったのです。
昨日、情報公開した『にんげん関係修復屋さん』は、こじれてしまった人間関係を修復していく事業をしていくのですが、これは家族の中で実現しなかった私のやり残した想いと願いなんだと思います。だから拘るし、その部分に関与していきたい。
だって人は、憎しみ合うために繋がるのではないし、はじめはHappyで愛情の交換がされていた関係だったはず。小さなことでボタンを掛け違えてしまい、小さなことで糸が縺れ始めてしまいます。その小さなことが要因なのだとしたら、大きな塊になっちゃう前になんとか出来るのではないか。・・・それが、小さな子どもの頃の私の考えだったのだと思います。

自分の人生にはお宝満載

私がナゼこの事業をやりたいのか‥を紐解くのに、まさか自分の子供の頃の体験が出てくるとは、実は思っていませんでした。けれど出てきた瞬間、自分の中で深く腑に落ちたし、それでいて「自分のやるべきことだ」ということを実感したのです。

自分の人生、生命をかけてやりたいことや使命。それは、これまでの自分の人生の中に眠っているということを、今回の体験から知ることが出来ました。自分の人生にはお宝満載と、師匠の明美ちゃんが言っていましたが、まさにそのとおりです。
不仲な父と母に感謝ですね(笑)この家族のところに来たから、今の気づきがあるのですから。

自分の人生を、こうしてブログで振り返ってみるのもおもしろいな‥と思ったので、また気が向いたら書こうと思います。長文となりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Written by 松井友香

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まつい ゆか綴|Blogこれまで、あまり自分の人生について語っていませんでしたが、今回の事業と深く結びついたところがあり、とても自分の中で腑に落ちたので、そのことも含めて書こうと思いました。 生誕 私は1977年に横浜で、ごくごく普通の家庭に生まれました。父はサラリーマン、母は専業主婦。裕福ではなかったけれど、貧しいわけでもなく、平和な日常を過ごしていたと思います。 当時は父の仕事の関係で名古屋に住んでいたそうですが、母にとって初めての出産ということで、母の実家がある横浜市で私は生まれました。そのため、数カ月後には名古屋に移ったそうです。 弟が2年後に生まれる 1979年に弟が名古屋で生まれました。私は弟の存在をとても喜んでいたであろうと、写真を見るとそんな雰囲気が伝わってきます。仲間が出来たような、守りたいものが出来たような、そんな感覚があったように感じます。 母は男の子を生みたくなかったそうです。そのためか、母は弟に対して厳しく冷たく当たっていました。虐待はされていないけれど、どちらかというと私は守られ、弟は怒られる対象になりやすい‥そんなふうにパワーバランスが偏った接し方を母は私と弟にしていたように思います。 私も自分自身が怒られるのが嫌なので、弟を盾にしていました。(←ひどい‥)弟が怒られているのを、いつも心の奥で「ごめんね…」と感じていたことを、今でも思い出します。「ごめんね…」と思いながらも、守ってあげられない自分に不甲斐なさを感じていました。行動を起こせない自分を情けなく感じていました。 そんな弟ですが、それでも私を「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と言いながらくっついてくる優しい子でした。ケンカする時は、取っ組み合いのケンカもそれなりにしてきましたが、ケンカしながらもとても仲良かったと思います。 引っ越しが続く 横浜で生まれ、幼稚園までは名古屋で過ごしました。その後、小学校1年生からは青森県青森市で育っています。これも父の仕事の関係でした。幼稚園の頃の友達、近所の遊び友達と別れることがとても悲しかったと記憶しています。 子供の頃から引っ越しを繰り返しているためか、環境が変化することに対する抵抗が今でもありません。場所に執着する、腰を据えることがないのが、ある意味私のフットワークの軽さにも繋がっているのかもしれませんね。 青森での生活はとても楽しいものでした。新しい友だちもでき、雪の国での生活は大人は大変だったと思いますが、子供にしてみると雪と遊べる楽しさは、何にも代えがたいものです。冬にはスキーの運動会があったり。ほぼ毎週末は父に連れられスキー場のナイターを楽しみました。母親参観ではかまくら作りなど、雪国ならではのコンテンツばかり。自然に囲まれながら、小学校1年〜4年までを伸び伸びと過ごしました。自然と接すること、自然の生命と接して慈しむ心は、ここで育ったように思います。 そして再び引っ越したのが、小学校4年生が終わり、5年生になる間の春休みでした。青森から神奈川県相模原市へ越すことになりました。これまた父の仕事の関係です。 この時も友達と別れることが、とてもとても悲しくて泣きまくりました。駅にはクラスメイトと先生が見送りに来てくれて、千羽鶴をもらいドラマチックな別れをしました。 別れの切なさは、この頃からよく感じていたと思います。また新しい環境に入っていく緊張感や怖さも、よく感じていました。転校生っていうだけで、注目されちゃうんですよね。。 父と母が不仲になり始める 曖昧な記憶で、いつの頃かはハッキリと覚えていません。青森の家だったか…相模原の家だったか…記憶が曖昧ですが、よく子供の頃から「母がいなくなったら」とか「父がいなくなったら」とか「家族がバラバラになったら」を想像しては、枕を涙で濡らす子でした。 本当よくそんなことばかり考えていたなぁ…。そんなことを常日頃から思っていたということは、少なからずとも父と母の不仲を子供ながらに感じていたからでしょう。家族の中に安心感が欠け始めていました。 母は私によく父の文句・不満を言っていました。父は私によく母の文句・不満を言っていました。随分と聞かされたという記憶があります。そのためか、私は“結婚”に対して良いイメージを持っていませんでした。だから今でも独身なんでしょう‥(笑)「お父さんのような人と結婚してはいけない」というフレーズは、よく聞いていたような気がします。 母の話しを聞き、父の話しを聞き。私は家族がバラバラにならないよう、一生懸命不仲な二人をなんとか取り持っていたように感じます。けれども、私の努力は虚しく徐々に父と母の会話は少なくなり、冷戦状態に突入しました。会話すらしなくなり、何か用事があるときには私を通して伝えてくる。そんな冷めきった夫婦の間にいた私は、二人の伝書鳩をしていたと思います。 なぜそうなってしまったのか。そのきっかけは何だったんだろうか?何が原因なんだろうか?こうなってしまっては、修正がきかないんだろうか? 愛して幸せになるために一緒になったはずなのに…。 そんなことを10代に入って感じていたと思います。 そして父は単身赴任をするようになり、3年という単位で不在にしていました。大型の休みのときにしか帰ってこない父。母と弟と私の生活が当たり前になってきました。 冷戦状態はおそらく10年以上 父と母の不仲は10年以上だったと思います。結局離婚をしたのですが、離婚したのは私が23か24歳くらい。成人になってからでした。けれども、不仲のスタートは多分10歳か11歳頃なので、約12年くらいだと思います。さすがに子どもたちも成人になったことですし、子供たちから見ていても別々になるほうがお互いの幸せになると分かっていたので、離婚に賛成をしました。そこから母も伸び伸びしているように思います。 私が関係性を修復したい理由は… 私はこれまで「なぜそんなまで、人が感情がもつれて不仲になっていくことに悲しさと憤りを感じるんだろうか…?」と自分でも分からず、不明なままでした。 そして先日ある人に尋ねられたのです。「あなたは、なぜこの事業・サービスをしたいのですか?」と。 その時は「さぁ…?なぜかニュースを見ていて、人間関係がもつれて殺人事件とか傷害事件になるのが、もう嫌で見てられないんですよねぇ‥どこから湧き出てくる感情か分からないんですけど。。」と応えていましたが、その後にふと降りてきたのが、自分の人生の振り返りでした。 私はずっと父と母の関係を修復したいと願っていた。二人が冷戦状態になることを切なく思っていた。多分そこには憤りもあったのでしょう。双方の意見を聞き、気持ちを聞き続け、けれども子供の私には何もすることが出来なかったのです。 昨日、情報公開した『にんげん関係修復屋さん』は、こじれてしまった人間関係を修復していく事業をしていくのですが、これは家族の中で実現しなかった私のやり残した想いと願いなんだと思います。だから拘るし、その部分に関与していきたい。 だって人は、憎しみ合うために繋がるのではないし、はじめはHappyで愛情の交換がされていた関係だったはず。小さなことでボタンを掛け違えてしまい、小さなことで糸が縺れ始めてしまいます。その小さなことが要因なのだとしたら、大きな塊になっちゃう前になんとか出来るのではないか。・・・それが、小さな子どもの頃の私の考えだったのだと思います。 自分の人生にはお宝満載 私がナゼこの事業をやりたいのか‥を紐解くのに、まさか自分の子供の頃の体験が出てくるとは、実は思っていませんでした。けれど出てきた瞬間、自分の中で深く腑に落ちたし、それでいて「自分のやるべきことだ」ということを実感したのです。 自分の人生、生命をかけてやりたいことや使命。それは、これまでの自分の人生の中に眠っているということを、今回の体験から知ることが出来ました。自分の人生にはお宝満載と、師匠の明美ちゃんが言っていましたが、まさにそのとおりです。 不仲な父と母に感謝ですね(笑)この家族のところに来たから、今の気づきがあるのですから。 自分の人生を、こうしてブログで振り返ってみるのもおもしろいな‥と思ったので、また気が向いたら書こうと思います。長文となりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。 Written by 松井友香心の対話ファシリテーター|企業研修講師|実現プロデューサー まついゆか 公式ブログ