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気づけば前回の更新から約1ヶ月弱…
前回の投稿では『手放す勇気』と題して、現状の自分を整理して手放さねば‥としていましたが、そうそう簡単にできるわけなく。

前回の記事→『手放す勇気』

そのまま雪だるまが転がり落ちていくように勢いがとまらず、ほぼ7月〜8月中旬まで記憶が無い‥というくらいに多忙な日々が続き、ようやく落ちるところまで転がって止まった状態です。←今ここ。

 

「ふ〜っ」と一息ついたところで、「はて…?この一ヶ月は何をしていたかね??」と自分に問うと、行動としてはいろんなことをしていました。
ただ…行動はたくさんのことをしているのに、心が付いて行ってない、心が置き去りになっていたため、放心状態が約一週間続いていました。“心を亡くして動いていたツケが回ってきた”という状態です。
感じないで行動だけをしていると、心が空っぽになります。その心を自分の中に取り戻すことに時間を費やしていた一週間でした…。

 

「心を亡くしている状態」って、そもそもどんな状態?感覚?

心を亡くして動き続けることが、そもそもどういうことか‥?ということについて触れたいと思います。
私は2014年に鬱になって当時の仕事を一時的に休職しました。あの時期を体験したからこそ、“心を亡くしている状態”というのが、自分の中の身体感覚として分かるんですよね。
私の場合、心を亡くしている状態のときは、やたらと思考がフル回転。なので頭は冴えているし、ギラギラしているような感じ。神経は常に交感神経が優位となっているため、なかなか眠れなくなったり。次から次へといろんなことを考えてばかりいて、頭の中は取り留めのない、とっ散らかっている感じが続きます。身体全体が興奮状態のため、ある意味とても活発的で元気はある。しかしながら、その元気はどこかカラ元気のような状態。躁鬱病の“躁”が続いているような感じです。周囲から見るとHighなので心配されることもなく、逆に「元気だねぇ〜」なんて言われちゃって…。その「元気だねぇ〜」の言葉に影響されて、ますます勢いが増してしまったり。

しかし、どこかで気づいているんです。自分の心を置き去りにしていることを。ただ、このまま目の前の状況を走り抜けるためには、今は一時的に自分の心を置き去りにしないとやっていけない‥と、その時は思っています。心に蓋をすること(=感じることをやめること)で、前に進む勢いと力を手にします。

 

走り抜けた後にやってくる“腑抜け状態”

忙しくしていた時期を勢いと思考でなんとか駆け抜け、パタリと足が止まった瞬間、ものすごい疲労感と虚無感に襲われます。ようやく、自分の時間と身体が空いたのが8月20日の週。その時、どんなことが自分の中に起こってきたかというと【何もしたくない】、誰かに骨を抜かれてしまったような‥まさに腑抜け状態に見舞われました。そしてこれは以前にも感じたことのある感覚。まさに昔、自分が鬱状態で倒れたときと似た感覚です。【何もしたくない】というのは、本当に【何もしたくない】。テレビも見たくない、携帯も見たくない、ネットも見たくない、誰とも話したくない、ただただ寝続けるという時間の過ごし方をし、それで何日間か過ごしました。

この時に、自分の中では何が行われているのか…?ということを、生命レベルで分析してみると、まさに“心を取り戻している”のだと思います。置き去りにした自分の心・感情・感覚を、再度自分の身体に取り戻す行為を、この腑抜けになりながらやっているんではないかな‥と思います。なので、とことん腑抜けになってみる。だって、心を亡くしてしまったのは自分なんだから、また自らの力で感情・感覚を取り戻すということを、じっくり時間をかけてやってあげたらいいんです。

 

“感じること”は時間がかかることを知っておく

感じることって、実は時間がかかることなんです。子供の頃は動物的感性・感覚をまだ持っていたので、痛い・辛い・悲しい・嬉しい・楽しい…など、自分が体験したことと感覚がほぼ直結しており、いろんなことをすぐさま感じ取ることが出来ていました。逆に感じることは出来ても、それを表現する手段として言葉を持っていないため、人に伝えることがなかなか上手には出来ません。
しかし成長と共に言葉を習得し、それによって思考が発達していきます。するといつしか思考と感性は逆転してしまい、“感じること”を脇に置くようになって、頭で考える習慣が主体となってきます。その分、どんどん動物的感性・感覚は鈍くなる。更に思考が発達すると頭でっかちになって、いつしか“感じること”を脇に置くどころか、忘れていく人が現代人では多く見受けられると私は感じます。
それはナゼなのか…?
情報化社会が作り上げたハイスピード化が定着してきたからですね。便利になってきたからこそ、成果とスピードを求められるようになりました。いちいち感じていたら、求められている成果を求められるスピードで達成することが出来ないんですよ。なので感じることをやめてしまう人が多くなり、それがうつ病患者の増加にも繋がっていると私は考えています。
思考は処理能力に長けています。けれども、その能力だけで生きていては、人間(動物)ではなくロボットなんです。感じる力があるからこそ人間なのに、その能力を除外してしまっては人間であることを放棄するのと一緒。

感じることは、時間がかかること。ここはトレーニングで時間を縮めることは可能だと思います。ただいずれにせよ、思考で判断するよりも何十倍も感じることの方が時間がかかります。時間をかけてでも“感じる”ことを自分の中に取り戻す行為は、生きていく上でとても重要なことなんですな。

 

感じることを許可しましょ

また、世間の風潮として感じることがどこか「良し」とされていない傾向もあるのではないかと見受けられますね。泣くことは駄目なこと・大声で笑うことは迷惑なこと・悲しさや寂しさは無かったことのように封印するなど、感じたままに表現することはNGとされ、それがイコール「感じてはいけない」という解釈になっているように感じます。なぜ、感じたままに表現することがNGなのか…?
それは出てきた感情の扱い方を、自分自身も親も知らないからなんですよね。親自身が自分の感情を表現することを自分に許可していないと、当然子供にもそれを押し付けます。「泣くんじゃない!」と発言があった場合は、親が自分自身に「泣いてはダメだ」と思っているからですね。
さらには、感じることは子供っぽくて、思考(理性)を使うのが大人というイメージ、どこかで持っていませんか?? それもとんだ勘違いですね。感じていることの中にしか真実はありません。思考・理性は嘘をつくこともできるし、勘違いさせることも出来ますし、自分を誤魔化すこともできます。
感じたことに善し悪しはありません。そこに善し悪しをつけるのは、思考の役割です。思考が「ダメ」と言うと、感じたことを抑圧していきます。けれども感じたことこそが、真実なんです。

そんな“感”の抑圧を何度もしているうちに、どんどん感性・感覚は鈍くなっていきます。“感”との距離が出来てきちゃうんですよね。そして知らず知らずのうちに、感じることを止めてしまう…。そうなると、自分が何を感じているのか当然分からなくなってきますし、能面のような表情しかしなくなってきます。また抑圧された感情が、全く別の穴から吹き出てくるので、TVドラマで涙もろくなったりするわけです。涙を流すことを自分に許可してないから、なにか大義名分を見つけて泣くことをします。
おじさんがよく言いますね。「いやぁ‥最近、ちょっとしたドラマで泣いちゃうんだよぉ‥涙腺が弱くなってきて、まいっちゃうね‥」と。これは年齢のせいではありません。泣くことを許していない年月が長いからですよ、おじさん。

 

忙しさの後には、自分を取り戻す時間を設ける

社会人ですもの。時には勢いよく走らなくてはいけない時期もありますよね。そんな時、いちいち感じていたら仕事にならんよ!‥というのも、ごもっともです。
なにごともバランスですね。なので、忙しい時期には必ずゴールを設定し、ゴールの後には自分を取り戻す時間をスケジュールに組み込みましょう。その時、思う存分に自分を開放し、たくさん“感じる”ことを体験する。キレイなものを見る、美味しいものを食べる、良い音楽を聴くなどなど。それを体験するだけではなく、味わって感じきるということが大事。体験を感性と結び直す時間を作って、感覚を呼び覚ましていくのです。

その時に基準とするのは、「涙を流すほど(涙が出るほど)○○なこと」。涙が出るほど感動を味わうとか、涙を流すほど心に沁みる音楽を聴くとか、美しい景色を見ながら涙を流すなど。そこでやっと、感性が自分の中に戻ってきます。

涙は浄化作用も、癒やし作用も、ストレス発散作用もありますからね。人間に備えられた感性リセットボタンかもしれないですね。美しい涙の後には、美しい心に戻っている‥そんな感じがするんじゃないでしょうかね。

 

 

さて、自分を取り戻したところで、これまで滞っていたことを少しずつ実行していく力が戻ってきました。それと、ここ最近の多忙にしていた時期にあったいろんなことも、記事にしていこうと思います。
皆さま、美しい体験をして涙を流す習慣をつけましょう。感情の循環こそが、生命を活かしていきますからね。

Written by まついゆか

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まつい ゆか心|Mind綴|Blog閃|Awareness気づけば前回の更新から約1ヶ月弱… 前回の投稿では『手放す勇気』と題して、現状の自分を整理して手放さねば‥としていましたが、そうそう簡単にできるわけなく。 前回の記事→『手放す勇気』 そのまま雪だるまが転がり落ちていくように勢いがとまらず、ほぼ7月〜8月中旬まで記憶が無い‥というくらいに多忙な日々が続き、ようやく落ちるところまで転がって止まった状態です。←今ここ。   「ふ〜っ」と一息ついたところで、「はて…?この一ヶ月は何をしていたかね??」と自分に問うと、行動としてはいろんなことをしていました。 ただ…行動はたくさんのことをしているのに、心が付いて行ってない、心が置き去りになっていたため、放心状態が約一週間続いていました。“心を亡くして動いていたツケが回ってきた”という状態です。 感じないで行動だけをしていると、心が空っぽになります。その心を自分の中に取り戻すことに時間を費やしていた一週間でした…。   「心を亡くしている状態」って、そもそもどんな状態?感覚? 心を亡くして動き続けることが、そもそもどういうことか‥?ということについて触れたいと思います。 私は2014年に鬱になって当時の仕事を一時的に休職しました。あの時期を体験したからこそ、“心を亡くしている状態”というのが、自分の中の身体感覚として分かるんですよね。 私の場合、心を亡くしている状態のときは、やたらと思考がフル回転。なので頭は冴えているし、ギラギラしているような感じ。神経は常に交感神経が優位となっているため、なかなか眠れなくなったり。次から次へといろんなことを考えてばかりいて、頭の中は取り留めのない、とっ散らかっている感じが続きます。身体全体が興奮状態のため、ある意味とても活発的で元気はある。しかしながら、その元気はどこかカラ元気のような状態。躁鬱病の“躁”が続いているような感じです。周囲から見るとHighなので心配されることもなく、逆に「元気だねぇ〜」なんて言われちゃって…。その「元気だねぇ〜」の言葉に影響されて、ますます勢いが増してしまったり。 しかし、どこかで気づいているんです。自分の心を置き去りにしていることを。ただ、このまま目の前の状況を走り抜けるためには、今は一時的に自分の心を置き去りにしないとやっていけない‥と、その時は思っています。心に蓋をすること(=感じることをやめること)で、前に進む勢いと力を手にします。   走り抜けた後にやってくる“腑抜け状態” 忙しくしていた時期を勢いと思考でなんとか駆け抜け、パタリと足が止まった瞬間、ものすごい疲労感と虚無感に襲われます。ようやく、自分の時間と身体が空いたのが8月20日の週。その時、どんなことが自分の中に起こってきたかというと【何もしたくない】、誰かに骨を抜かれてしまったような‥まさに腑抜け状態に見舞われました。そしてこれは以前にも感じたことのある感覚。まさに昔、自分が鬱状態で倒れたときと似た感覚です。【何もしたくない】というのは、本当に【何もしたくない】。テレビも見たくない、携帯も見たくない、ネットも見たくない、誰とも話したくない、ただただ寝続けるという時間の過ごし方をし、それで何日間か過ごしました。 この時に、自分の中では何が行われているのか…?ということを、生命レベルで分析してみると、まさに“心を取り戻している”のだと思います。置き去りにした自分の心・感情・感覚を、再度自分の身体に取り戻す行為を、この腑抜けになりながらやっているんではないかな‥と思います。なので、とことん腑抜けになってみる。だって、心を亡くしてしまったのは自分なんだから、また自らの力で感情・感覚を取り戻すということを、じっくり時間をかけてやってあげたらいいんです。   “感じること”は時間がかかることを知っておく 感じることって、実は時間がかかることなんです。子供の頃は動物的感性・感覚をまだ持っていたので、痛い・辛い・悲しい・嬉しい・楽しい…など、自分が体験したことと感覚がほぼ直結しており、いろんなことをすぐさま感じ取ることが出来ていました。逆に感じることは出来ても、それを表現する手段として言葉を持っていないため、人に伝えることがなかなか上手には出来ません。 しかし成長と共に言葉を習得し、それによって思考が発達していきます。するといつしか思考と感性は逆転してしまい、“感じること”を脇に置くようになって、頭で考える習慣が主体となってきます。その分、どんどん動物的感性・感覚は鈍くなる。更に思考が発達すると頭でっかちになって、いつしか“感じること”を脇に置くどころか、忘れていく人が現代人では多く見受けられると私は感じます。 それはナゼなのか…? 情報化社会が作り上げたハイスピード化が定着してきたからですね。便利になってきたからこそ、成果とスピードを求められるようになりました。いちいち感じていたら、求められている成果を求められるスピードで達成することが出来ないんですよ。なので感じることをやめてしまう人が多くなり、それがうつ病患者の増加にも繋がっていると私は考えています。 思考は処理能力に長けています。けれども、その能力だけで生きていては、人間(動物)ではなくロボットなんです。感じる力があるからこそ人間なのに、その能力を除外してしまっては人間であることを放棄するのと一緒。 感じることは、時間がかかること。ここはトレーニングで時間を縮めることは可能だと思います。ただいずれにせよ、思考で判断するよりも何十倍も感じることの方が時間がかかります。時間をかけてでも“感じる”ことを自分の中に取り戻す行為は、生きていく上でとても重要なことなんですな。   感じることを許可しましょ また、世間の風潮として感じることがどこか「良し」とされていない傾向もあるのではないかと見受けられますね。泣くことは駄目なこと・大声で笑うことは迷惑なこと・悲しさや寂しさは無かったことのように封印するなど、感じたままに表現することはNGとされ、それがイコール「感じてはいけない」という解釈になっているように感じます。なぜ、感じたままに表現することがNGなのか…? それは出てきた感情の扱い方を、自分自身も親も知らないからなんですよね。親自身が自分の感情を表現することを自分に許可していないと、当然子供にもそれを押し付けます。「泣くんじゃない!」と発言があった場合は、親が自分自身に「泣いてはダメだ」と思っているからですね。 さらには、感じることは子供っぽくて、思考(理性)を使うのが大人というイメージ、どこかで持っていませんか?? それもとんだ勘違いですね。感じていることの中にしか真実はありません。思考・理性は嘘をつくこともできるし、勘違いさせることも出来ますし、自分を誤魔化すこともできます。 感じたことに善し悪しはありません。そこに善し悪しをつけるのは、思考の役割です。思考が「ダメ」と言うと、感じたことを抑圧していきます。けれども感じたことこそが、真実なんです。 そんな“感”の抑圧を何度もしているうちに、どんどん感性・感覚は鈍くなっていきます。“感”との距離が出来てきちゃうんですよね。そして知らず知らずのうちに、感じることを止めてしまう…。そうなると、自分が何を感じているのか当然分からなくなってきますし、能面のような表情しかしなくなってきます。また抑圧された感情が、全く別の穴から吹き出てくるので、TVドラマで涙もろくなったりするわけです。涙を流すことを自分に許可してないから、なにか大義名分を見つけて泣くことをします。 おじさんがよく言いますね。「いやぁ‥最近、ちょっとしたドラマで泣いちゃうんだよぉ‥涙腺が弱くなってきて、まいっちゃうね‥」と。これは年齢のせいではありません。泣くことを許していない年月が長いからですよ、おじさん。   忙しさの後には、自分を取り戻す時間を設ける 社会人ですもの。時には勢いよく走らなくてはいけない時期もありますよね。そんな時、いちいち感じていたら仕事にならんよ!‥というのも、ごもっともです。 なにごともバランスですね。なので、忙しい時期には必ずゴールを設定し、ゴールの後には自分を取り戻す時間をスケジュールに組み込みましょう。その時、思う存分に自分を開放し、たくさん“感じる”ことを体験する。キレイなものを見る、美味しいものを食べる、良い音楽を聴くなどなど。それを体験するだけではなく、味わって感じきるということが大事。体験を感性と結び直す時間を作って、感覚を呼び覚ましていくのです。 その時に基準とするのは、「涙を流すほど(涙が出るほど)○○なこと」。涙が出るほど感動を味わうとか、涙を流すほど心に沁みる音楽を聴くとか、美しい景色を見ながら涙を流すなど。そこでやっと、感性が自分の中に戻ってきます。 涙は浄化作用も、癒やし作用も、ストレス発散作用もありますからね。人間に備えられた感性リセットボタンかもしれないですね。美しい涙の後には、美しい心に戻っている‥そんな感じがするんじゃないでしょうかね。     さて、自分を取り戻したところで、これまで滞っていたことを少しずつ実行していく力が戻ってきました。それと、ここ最近の多忙にしていた時期にあったいろんなことも、記事にしていこうと思います。 皆さま、美しい体験をして涙を流す習慣をつけましょう。感情の循環こそが、生命を活かしていきますからね。 Written by まついゆか心の対話ファシリテーター|企業研修講師|実現プロデューサー まついゆか 公式ブログ